Moridon Movie reMark

映画やドラマについての備忘録。

『イン・ザ・ハイツ』とは“声”である

In the Heights (2021) - IMDb

 

2020年にはBlack Lives Matterが、2021年にはアジア系差別に反対する運動が大きく広がった。映画というカルチャーにおいても、力ある黒人監督、アジア系監督の存在を例年以上に感じる年だった。しかしアフロアメリカンやアジアンアメリカンが取り上げられることはあっても、ラティーノアメリカンが取り上げられることはほとんどなかったのではないだろうか。

 

リン=マニュエル・ミランダはラティーノだ。彼がつくり上げた『イン・ザ・ハイツ』は2008年3月からブロードウェイで封切りされるや否や話題を呼び、その年のTony Awardsにてベストミュージカル賞を含む4つの賞を受賞した大人気ミュージカルである。そしてジョン・M・チュウ監督のもとこれを映画化したものが今作であり、米国では2021年6月11日、日本では同年7月30日に公開されている。

 

ブロードウェイのステージ上では表現できない垂直方向からのショットの多用、町全体を使った演出のスペクタクル、ガラスの反射を利用した巧みな編集、ミュージカルを映画化するにあたってここまで見事な映画的表現に溢れている素晴らしさを語るだけで日が暮れてしまいそうだが、今回はあえてそのような「形式」についてではなくこの映画の「主題」について書いていきたいと思う。

 

やはりこの映画を語るにおいてまずはラティーノ(ラテン系アメリカ人、ヒスパニック)について言及しなけばならないだろう。メキシコ、キューバプエルトリコなどのラテンアメリカ出自の移民およびその子孫は、長い間アメリカという国で確かに「アメリカ人」として生きてきた。それにもかからわらずその存在はないがしろにされ続けてきたのである。私は現在テキサス州のヒューストンで暮らしているが、メキシコのすぐ北、ニューメキシコ州のすぐ東のこの土地には本当に多くのラティーノが住んでいる。そして目にする多くのラティーノが道路工事の作業員だったりオフィスの清掃員だったりする。そういった賃金の低い職に追いやれている人が未だに多く存在し、感覚的にその数は黒人よりも多い。

 

そして冒頭でも述べたように、同様のことが映画の世界でも起きているのだ。ラティーノの俳優はたくさんいるが、ラティーノが主演を務める映画をあなたはいくつ思いつくだろうか。そんな中この『イン・ザ・ハイツ』はキャストをラティーノで固めながらラテン系の音楽やダンスを劇中に取り入れ、ラティーノのカルチャーを全面的にレプリゼーションした、ラティーノの『ブラックパンサー』とも言える素晴らしい作品だ。少なくともこんなに多くのスペイン語のセリフが字幕なしで流れているアメリカ映画を私は観たことがない。「これくらい字幕つけないでもわかりますよね?」「わからないならそれだけ我々から目を背けていたということですよね?」と言われているかのようだ。アメリカという土地にラティーノが存在していることが当たり前であるのと同様に、「アメリカ映画」というフォーマットの中にラティーノが当たり前に存在しているこの事実に感動を覚えずにはいられない。映画館で私の周りに座ってこの映画を観ていたラティーノたちの表情をきっと忘れることはないだろう。

 

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(注:以下、作品の後半の内容についてのスポイラーあり)

 

しかし、この映画の目的はそこではない。ラティーノに感動してもらうために作られたわけではないし、さらに言えばマイノリティへ理解のある観客に「いい作品だったなー」と感動してもらうことでもない。この映画の一番の盛り上がりは“96,000”が流れるシーンかもしれないが、ハイライトは確実に“Carnaval del Barrio”であり、この曲の歌詞を見ればこの映画が何を伝えようとしているのか明らかだろう。ジェントリフィケーションで上がり続ける家賃、閉じることを余儀なくされる店たち、挙句の果てには停電。そんな状況で何もできずにいる子供のソニーと女性のヴァネッサは“We are powerless”だと歌う。これは電気(power)が無い(less) ことにもかかっているのだが、ここでは文字通り「無力(powerless)」と捉えるのが正解だろう。自分のせいではなく社会的なシステムによって権利を奪われている二人が「私たちは無力だ」と歌い、それに対してウスナビが答える。

 

“Maybe we're powerless(確かに俺たちは無力かもしれない)”

“However!(それでも!)”

“Can we raise our voice tonight? Can we make a little noise tonight?

(今夜声を上げないか?ちょっとでいいから騒いでみないか?)”

“In fact, can we sing so loud and raucous They can hear us across the bridge in East Secaucus?

(あの橋の向こうにいるヤツらに聞こえるくらい、騒がしいくらいに歌ってみないか?)”

 

このたった数分のやり取りに、この映画の全てが詰まっている。向こうにいるヤツらに聞かせてやるための声。『イン・ザ・ハイツ』は元々ブロードウェイのミュージカルだ。そう、この作品はブロードウェイの客席の大半を占める白人たち、普段ラティーノのことなんてまったく考えていないヤツらに、「存在」を気づかせてやるための「声」なのだ。『アメリカン・ユートピア』でデヴィッド・バーンが白人ばかりのファンに向けてジャネール・モネイの“Hell You Talmbout”を歌ったように。そして「声」とは無力な我々が持ち得る唯一の武器であり、アブエラが言っていた“Little details that tell the world we are not invisible”なのである。

 

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それだけではない。この映画は終始ウスナビが子供たちに物語を伝えることで話が進んでいくという形式がとられている。要するに子供たちに「声」を伝えているのだ。ポストトゥルースのこの時代において後の世代に声を、歴史を、嘘偽り無く伝えることの重要性。

“Say it, so it doesn't disappear.

(声に出そう。そうすれば消えない。)”

ソニーというキャラクターの描き方やDACAへの言及など、この映画において子供の存在は重要なファクターになっている。ウスナビでもヴァネッサでもなく、二人の子供であるアイリスの顔をアップで映して映画が幕を閉じるのも必然だ。あのラストカットを見たとき、思わずガッツポーズをしてしまった。DACAは若年時にアメリカに入国した不法移民(undocumented immigrant)に対して強制国外退去処分を延期して就労許可を与えるものであり忌まわしきドナルド・トランプがこれを2017年に廃止したのだが、オリジナルは2008年のミュージカルだったのに対して映画はしっかりトランプ以後の作品になっている点も良くできている。

 

そして何よりウスナビがドミニカ共和国へ帰ることはせず、ワシントン・ハイツで生きることを決めた選択に胸を熱くせざるを得ない。彼にとっての本当の「故郷」はここ、アメリカなのだ。両親が生まれ育った国と自分が今住んでいる国、その二つの国の文化と価値観の真ん中にいてどちらにも属せないでいる移民二世のアイデンティティを後押ししてくれるような、アジアンだろうがアフリカンだろうがラティーノだろうが、このアメリカで育ったあなたはこの国を「故郷」と呼んでいいのだと言ってくれているような、そんな“I'm home!”と声高らかに歌うウスナビの声に胸を打たれる。

 

もちろんこの映画は決して完璧な映画ではない。ラティーノをレプリゼンテーションしているにもかかわらずダークスキンのラティーノ(アフロラティーノ)がほとんどいない、いてもバックダンサーなどに追いやられてしまっている。ニーナ役のレスリー・グレースはアフロラティーノではあるものの彼女の肌がダークだとは言えないだろう。実際にワシントン・ハイツにはダークスキンのラティーノが数多く住んでいるわけなので、こんなことではレプリゼンテーションされた気にはならないとダークスキンのラティーノたちが怒りの声を上げるのは当然だ。

 

しかし今まで虐げられてきた多くのラティーノがこの映画の存在に救われているのも事実。そしてこの映画に満足していないラティーノがいるのもまた事実。この映画がアメリカで埋もれていたラティーノの「声」を浮かび上がらせてくれたことへの賞賛も、この映画に寄せられた批判と怒りの「声」も、共存できる、共存すべきものなのではないかなと思っている。ウスナビがそうしたようにその声たちを全て次に伝えていくこと、それによっていつかダークスキンのラティーノが主演を務めるハリウッドの超大作が生まれることを願わずにはいられない。