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映画やドラマについての備忘録。

監督マイク・フラナガンのエッセイ和訳-『真夜中のミサ』という極めてパーソナルなホラー

 

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『真夜中のミサ』はあまりにも長い間私の一部となっていて、いつ始まったのかを正確に思い出すのは難しい。私にとってこれほどパーソナルなプロジェクトは今までなかった。スクリーンに映し出されるまでの道程はとても長く、この作品に取り組み始めてから(世界全体がそうであるように)私自身も大きく変わった。しかしこの記事を書いている時点では、私の人生で最もやりがいのある仕事上の経験である。

 

運命を背負うクロケット島の住人たちについて最初に考え始めた時のことは覚えていないが、掘り起こしてみると2010年初頭に『真夜中のミサ』の小説に初めて挑戦した時のページが出てきた。2012年5月(同年夏にリアリティ番組の編集者の仕事を辞め、初めての「リアル」な映画である『オキュラス/怨霊鏡』の準備を始める前)に書こうとしていたスクリプトのページも見つかった。

 

2013年にはさらに進んだ脚本があったが、これはうまくいかないと気付いた瞬間を今でも覚えている。草稿を書き始めて150ページを超えたところで、ライリー・フリンとポール・ヒル神父が初めてアルコールについて重要な会話をしていた(これが後に最初の「断酒会」のシーンになる)。150ページというのは最終段階の脚本よりも長く、それなのに中間点にも達していなかった。この作品は、映画にするには大きすぎた。

 

最初にテレビシリーズ化を試みたのは2014年に遡るが、未完成のページの山をトレバー・メイシーとジェフ・ハワードに初めて共有したときの恐怖を今でも覚えている。トレバーは私がジェフと共同執筆した『オキュラス/怨霊鏡』と『ソムニア -悪夢の少年-』をプロデュースしていたが、二人とも『真夜中のミサ』の存在を知らなかった。これは私が最も固執していたプロジェクトであると同時に私にとって非常にパーソナルな物語であったため、最も信頼し、頻繁に協力してきた人たちにさえ最初これを見せることは憚られた。しかし私のエージェントは、大胆でユニークな長編ストーリーテリングの機会が爆発的に増えているテレビへの進出を強く望んでいた。そこで私は放置されていた脚本、放置されていた小説、そしてテレビ用にまとめるための大まかなアウトラインを提出し、『真夜中のミサ』をテレビシリーズとして開発する作業に取り掛かった。

 

2014年に売り込みを始め、街中のネットワークで10回近くミーティングを行い、私は緊張しながらもしっかりとリハーサルした45分間のプレゼンテーションを行った。私たちはクロケット島の原型となったバージニア州タンジールの地図を印刷して用意した。十字架や伝道集会のイメージ、少し未熟ながらも全く問題のないプレゼンだったが、どのネットワークからもGOサインは出なかった。

 

それが私の初めてのテレビでの体験であり、珍しいことではなかった。正直言って楽しかったし、誰もこの作品を作りたがらないことに失望しながらも、その空間にいるだけでワクワクしていた。当時は知り得なかったのでこのことは後になって思い出されるのだが、2014年にNetflixに『真夜中のミサ』を売り込んだときテーブルを挟んで座っていた若いエグゼクティブがブレア・フェッターだった。その日彼は『真夜中のミサ』を買わなかったが、数年後『ザ・ホーンティング・オブ・ヒルハウス』の時に再び彼と向かい合うことになった。Netflixがそのシリーズを購入し、私の人生を大きく変えることになった。

 

その間も『真夜中のミサ』のことが頭から離れなかった。2015年には『サイレンス』という小さなインディーズ映画の撮影を始めた。この作品はガールフレンドのケイト・シーゲルと一緒に書いたものだ。私たちは翌年に結婚し、人生をかけた共同作業に乗り出すことになるが、まずは私たちにとって強烈な試練となる小さな映画を作ることにアーティストとして、またカップルとして集中していた。

 

私たちは、ケイトが演じるマディー・ヤングが書いた本を考えなければならなかった。それを『真夜中のミサ』にしようと思いついたときは、少しほろ苦い気持ちになった。これはあの物語が形になることとほぼ同意義かもしれないと思った。(ケイトが『真夜中のミサ』でエリン・グリーンを演じることになったのは、今となっては特に喜ばしいことだ。)

 

私たちは『真夜中のミサ』のカバーを印刷した。マディーが実際に本を書いている映像が必要だったので、私は放棄していた小説を引っ張り出してきて、第1章を小道具係に渡した。あの映画でケイトがキーボードを叩きながら「神の魚」について話しているのを見ると、今でも微笑ましく思う(小説のプロローグでライリーの飲酒運転事故について詳述しているが、あのイクトゥスは今ではシリーズの最初のイメージとなっている)。また、マディの運命の隣人サラ役のサマンサ・スローヤン(後に『真夜中のミサ』でベヴァリー・キーンを演じる)が、架空の小説を読んで彼女がどれだけ「ライリーとエリンに夢中になった」かを語る姿には胸が熱くなってしまう。

 

それから1年以上が経過した2016年10月、『ジェラルドのゲーム』の撮影が始まった。スティーブン・キングの小説では物語の中で手錠をかけられ横になっている主人公の頭上に棚があり、その棚にはいくつかのアイテムが置かれていた。水の入ったコップや雑誌、様々な小物。そして一冊の本。私はすぐに、その一冊を『真夜中のミサ』にしたいと思った。ジェシー(素晴らしいカーラ・グギノが演じている)は重要なタイミングで手を伸ばしその本を掴み、亡くなった夫の遺体に近づいてきた野良犬に投げつける。瞬きすれば見逃すような瞬間だがあの数秒間、『真夜中のミサ』は生きていた。

 

そのシーンを撮影した後、クルーのメンバーから『真夜中のミサ』とは何かと聞かれた。私は微笑みながら、作られることのなかった最高傑作だと答えた。

 

私はカトリック教徒として育った。父はマサチューセッツ州グロスターの漁師町で育ったが、沿岸警備隊海上生活を送るためにそこを離れ、私たちはかなり転々とした。私はニューヨーク州のガバナーズ島にある「Our Lady, Star of the Sea(海の星の聖母)」で侍者を務めた。ガバナーズ島はマンハッタンの南800ヤードに位置する172エーカーの小さなコミュニティだ。私が住んでいた頃は沿岸警備隊の基地で子供の頃2回ほど駐屯していた。現在島は放棄され「海の星の聖母」は荒廃しているが、それでも大都市の一部でありながらこの小さな島における美しいチャペルがどこか自分だけの孤立した小さな世界のように感じられることに変わりはない。

 

私は子供時代の大半をメリーランド州のボウイで過ごしていた。Saint Pius X小学校、Archbishop Spalding高校に通い、聖心教区では侍者を務めた。ほとんどのミサは立派で近代的なメインの教会で行っていたが、森の中の曲がりくねった小道を登った先にある小さな歴史的建造物「丘の上のチャペル」にいつも魅了されていた。

 

「丘の上のチャペル」は、1741年に建てられたもので、当時はカトリック教徒として公に礼拝することは違法だった。1853年の火災で一部が焼失、1856年に再建された。周囲にはメリーランド州で最も古いとされる墓地があり、私はチャペルでミサを行った後よく墓石を見て回っていた。1700年代後半の色褪せて風化した石を見た記憶がある。子供たちの墓石もあった。ある家族全員の墓石を見たこともあったが、全員が同じ死亡年だった。色々なストーリーを想像してしまった。

 

私は信心深く、勉強熱心で、年相応に真面目な侍者だった。教会が好きだった。毎週日曜日に聖歌隊と一緒に歌いながら合唱の仕方を学んだ(これらと同じ聖歌に『真夜中のミサ』では幸運にも私の声を加えてもらった。ザ・ニュートン・ブラザーズが美しくつくり上げてくれた)が、あまりフォーマルではないミサで演奏するアコースティックなフォークグループの方が好きだった。

 

私が育った小教区では何人かの神父が司会をしていた。最初の神父は年老いたアイルランド人のモンシニョールで非常にタフな人だったが、後にアルツハイマーを患った。このテレビシリーズの序盤では神父が衰え、やがては交代することに対する教区の不安が大きく描かれており、パイロット版でウォーレンが語っていたように侍者の少年たちがミサの間彼との間に入って優しく誘導していたことを思い出す。二人目は若い神父で進歩的でカジュアルな雰囲気を持ち、面白くて鋭くどこまでも親しみやすい人だった。

 

2人とも善良で立派な男性であり、自分が説いたことを実践し、唸るような説教をし、コミュニティに貢献し、道徳、良識、優しさ、そして(少なくとも彼らにとっての)神に捧げた生活を送っていた。良い人たちだった。世界中のカトリック教会を揺るがした弁解の余地のないあのおぞましいスキャンダルは私が育った教区には及ばなかったと思うし、そのことには常に感謝している。

 

私は大学に進学するまで祭壇に仕えていたが、大学でカトリックの外の世界を知り始めた。大学1年の時に初めて世界宗教の授業を受け、それが私の心を揺さぶった。毎週のミサに何年も参加し、カトリックの学校で過ごしてきたにもかかわらず、私は実際にはカトリックのことをほとんど理解していないのだということに気付いた。毎週教会で聖書の一部を読んでもらったり、学校で指定された箇所を読んで議論したりしていただけで、本当の意味で聖書を読んではいなかった。自分で聖書を読んだことがなかったのだ。私はそれを改善することにした。神を、探そうと思った。

 

聖書を読んだ。読み続けた。神を探すのなら、あらゆるところを探そうと思った。私はユダヤ教ヒンドゥー教イスラム教の研究に没頭した。仏教とは数年間強く結びつき、さらなる探求のためロサンゼルスの寺にも足を運んだが、最終的に最も影響を受けたのはクリストファー・ヒッチェンズの『God is Not Great(神は偉大ではない)』だった。そこからサム・ハリスの『Letter to a Christian Nation』を読んだが、カール・セーガンの『Pale Blue Dot』を読んだときには20年に及ぶ聖書学習で得た以上の精神的共鳴を感じた。

 

私はこの数年間の研究にエネルギーを得て、疑問に満ちた子供時代をふと振り返ってみた。そこには確かに怒りがあった。しかしそれだけではなく、知識に対する渇望があった。私は世界の宗教がどれほど大きく異なっているか、そしてどれほど似通っているかに驚かされた。そしてまた、それらの宗教がいかに狂信と原理主義に陥りやすいかということにも驚かされた。愛の上に築かれたはずの宗教が、いかに簡単に憎しみを生むようになってしまうか。

 

そして、それは宗教に限ったことではない。原理主義的な考えがいかに浸透しあらゆる信念体系を堕落させてしまうかということにも衝撃を受けた。科学の世界でもそれは現れ、広がってしまう。ナショナリズム、政治、メディアも同じだ。信仰が、信心深い人に対していかに簡単に武器となり得るか。証拠がないにもかかわらず、あるいはさらに不愉快なことには矛盾する事実があるにもかかわらず、人は何かを信じるようにいかに仕向けられてしまうかということ。私はこの認知的な不協和音がある界隈では美徳として紹介されていることにゾっとした。

 

宗教に対する私の気持ちはとても複雑だった。魅了されたが、怒りもあった。様々な宗教を見て、それらの赦しと信仰の傾向に感動し驚きもしたが、排他主義、部族主義、狂信、原理主義の傾向には恐怖を感じた。多くの宗教の考え方は刺激的で美しいものだったが、その堕落はグロテスクで許しがたいものだった。私はもうそのような組織を支持するつもりはなかった。私がただ興味を持ったのは、ヒューマニズム、合理主義、科学...そして共感だ。

 

また、私はアルコール依存症であることも判明した。

 

私の親戚の両家では、アルコール依存症がかなり蔓延していた。両親は成長した私に自分が思っている以上にアルコールの影響を受けやすいかもしれないと警告していた。また、大学卒業後にはかなり深刻な多量飲酒者となっていたが、自分でそれを認めるには時間がかかった。

 

『真夜中のミサ』初期の草稿を振り返ってみると、私自身のアルコールに対する問題がいかに明白に物語を動かしていたかがわかり興味深い。侍者から無神論者に転向したライリー・フリンは自分が起こした交通事故を充血した目で見つめている。自分が飲酒運転をしたために、罪のないティーンエイジャーが歩道で死んでいくのを見ている。これが我々と主人公との出会いである。ライリーは常に薄っぺらな代理人であり、自分以外は誰も騙せそうにないアバターで、私自身の人格といかに共通点を持っているか、それを何年も認めることができなかった。

 

私とアルコールとの関係は全く健全ではなかった。10回のうち9回は何の問題もなく飲めるのだが、10回目ともなると… 謝罪の電話というのは二日酔いと同じくらい嫌なものだ。酒に支配されると、自分には自己破壊的な衝動があることを何度も学んだ。ライリーは酒を飲み過ぎると自分の中にもう一人の自分、破壊者が現れたような気がしたと言っているが、まさに私も酒に溺れたときにそう感じた。

 

私はこの状態をあまりにも長く続けてしまった。自己破壊的な行動が増えても、それが問題であることをすぐに否定していた。友情を失い、人間関係にダメージを与え、自分を殺していたかもしれないし、もっと悪いことには他の誰かを殺していたかもしれない。それは常に悪夢のようなシナリオだった。だからこそ私の最もパーソナルな物語である『真夜中のミサ』は私が完全には描き切ることのできなかった物語でもあり、あのような形で幕を開けたのだ。私の最悪で最も根強い不安から徐々に。酒のせいで私が死ぬかもしれないことではなく、他の誰かを殺してしまうかもしれないこと...そしてその後も生きていくということ。

 

この文章を書いている今、私は3年近く酒を飲んでいないが、家族やキャリア、そして命が危険にさらされる前に自分の問題に気付けたことに深く感謝している。その全てがこのドラマにも反映されている。残りの部分にはその動揺や後悔、恥の全てを取り入れた。狂信の腐敗と対峙する、赦しと信仰の美しさ。宇宙の中で私たちは孤独だという気持ちと、そうではないという願いとの戦い。道徳的確信の危険性、善意の脆さ、そして滅亡に直面しても信仰そのものが持つ反抗的な耐久性。

 

最悪の状況であっても、光も希望もない中で、私たちは歌うのだ。

 

あとは、どうにかしてこのドラマを作るだけだ。信仰、依存、回復、贖罪、狂信、赦しをテーマにした現代的な寓話は、たとえホラーショーであっても誰も買ってはくれない厳しいものである。幸いなことに、Netflixはそのリスクを喜んで引き受けてくれた。

 

『ザ・ホーンティング・オブ・ヒルハウス』は驚きのヒットだった。『真夜中のミサ』とは色々な意味で正反対の、過酷な製作体験だった。このドラマは、私たちの多くをほとんど殺しかけた。私は撮影中に18キロ以上体重が落ち、毎日が必要最低限のものを得るための戦いであり、しばしば希望のない、誰も見てくれない戦いでもあった。最終的な作品については非常に誇りに思っているが、プロとしては未だ人生最悪の経験だ。

 

そしてドラマが完成したときには、その着地点を知る由もなかった。実際、ドラマがヒットしたときには大きな驚きを感じた。Netflix、Paramount、Amblin、誰もが驚いているようだった。突然世界が変わり、視聴者は増え続け、製作終了後には終わっているかもしれないと恐れていた私のテレビでのキャリアは、確かな現実のものとなった。

 

Netflixは包括的な契約に興味を示していた。これは現段階においてIntrepid Picturesでパートナーを組んでいるトレバー・メイシーと私が以後4年間、Netflixのために独占的に作品を製作することを意味していた。これはNetflixがもっと多くの作品を欲しがっているということであり、そのプロセスについて今回は私たちがよりコントロールできる力を持っているということだ。そしてそれは『真夜中のミサ』に新たな命が吹き込まれることを意味していた。

 

ある日、私はトレバー、ブレア・フェッター、そして『ヒルハウス』のエグゼクティブの一人であるローラ・デラヘイと一緒に席についた。ブレアとローラがNetflixとの包括的な契約に向けて陣頭指揮を執ってくれたので、私たちは最初の数年間の計画を立てていた。

 

まず優先されるのは『ザ・ホーンティング・オブ・ブライマナー』という続編で、新しいストリーミングサービスとの新しい契約を交渉する際、それがテーブルの中心に置かれていた。しかしそれと同時に『真夜中のミサ』も存在していた。ブレアが何年も前にこの番組をスルーしていたことを、みんなで笑い飛ばした。だが同時にこれからこの番組を続けていくことにとても興奮していた。『ブライマナー』の製作が決定し、今後数年間はNetflixでの製作が確実になったことで、ブレアとローラはこのプロジェクトをピーター・フリードランダーとシンディ・ホランドに推してくれた。不確実な数年が経過した後、Netflixは『真夜中のミサ』にGOサインを出した。

                                                      

『ブライマナー』のライターズ・ルームは2019年の春にオープンした。ハリウッドのランカーシムにあって、私は朝からそこであの番組を形にしていた。昼食後に退社して、車で10分ほど走ったカフエンガにある別のオフィスに行くと、そこでは『真夜中のミサ』のライターズ・ルームが同時進行していた。2つの部屋を行ったり来たりする日々は厳しく、頭が混乱することもあったが、2019年にワーナー・ブラザースの『ドクター・スリープ』のポストプロダクションを終えている間に、2つの番組を何とか形にはすることができた。

 

2019年の秋にはバンクーバーで『ブライマナー』の撮影を開始した。とはいえ、『真夜中のミサ』の土台作りをする必要があったので、そのシリーズでは1エピソードしか監督しなかった。週末にはロケハンをしたり、脚本を推敲したり、迫り来る本番に向けて準備をしていた。計画では2020年2月に『ブライマナー』が終了し、3月には、『真夜中のミサ』を滞りなく開始することになっていた。

 

しかし努力はしたものの、クロケット島に適した既存のコミュニティを見つけることができなかった。バンクーバー近郊の島々は開発されすぎていて私たちが求める雰囲気が得られなかったり、遠すぎてクルーのアクセスが困難だったりした。クロケット島を作らなければならないことは明白だった。構造物、道路、街灯など、あらゆるものを。

 

そして『ブライマナー』撮影の間、私たちは黙々とそれを作っていた。リッチモンドのギャリー・ポイント・パークの大部分を占拠し、海岸線にクロケット・ハウスを建てた。地元の人々は公園の中に家が建っていることに興味津々だった(そして少しだけイラついていた)が、その漁港をマリーナとしても使うことになった。それ以外のクロケットの外観は、室内セットのあるブリッジ・スタジオから1時間ほど離れたラングレーの農場で作られた。

 

正直なところ、自分たちが作ったものには今でも驚かされる。プロダクションデザイナーのスティーブ・アーノルドは、実質何もないところから生き生きとした島のコミュニティを作り上げた。あなたがドラマの中に見るすべての要素が彼のデザインだ。クロケットは存在しなかった。すべて彼が作ったのだ。そしてその中を歩き、その中で長い間仕事をしているうちに、このドラマがいかに没入感のあるユニークなものになるかを実感した。

 

構造物はしっかりと立っていた。ペンキは乾いていた。キャストは旅に出ていた。7つのエピソードすべてのテーブルリーディングを行い、最後にはキャストが涙を流していた... 準備は、できていたのだ。

 

そして、世界が停止してしまった。

 

COVID-19がカナダを閉鎖したとき、私たちは撮影を数日後に控えていた。私たちの周囲では、怒涛の勢いでプロダクションが閉鎖されていった。そしてNetflixから、願わくば数週間だけだが私たちも閉鎖するよう連絡があった。国境が閉鎖された日、ロサンゼルスに帰る飛行機の窓の外を見たことを今も覚えている。上空から見下ろすと、ギャリー・ポイント・パークが見えた。水辺に沿って、私たちの建物が見えた。置き去りにされたままの、クロケット島が見えた。

 

次に何が起こるかは誰にもわからなかった。Netflixが番組をキャンセルし、これまでに費やした金額を帳消しにして損切りし、別のものに乗り換えることもあり得た。番組を再開するにはより多くの費用がかかることはわかっていた。彼らが最初にこの番組に使いたいと思っていた金額よりも多くの費用だ。果たして彼らはこの番組を続けようと思うだろうか?それともこのプロジェクトは、いつまでたっても軌道に乗らない運命にあるのだろうか?

 

数ヶ月間、私たちは待った。圧倒的な不確実性、キャストやスタッフもそれを感じていた。何度も電話をし、何度も仮説を立てたが、率直に言ってこの新しい世界で製作がどのようになるのか、誰にもわからなかった。この作品はもう死んだ、次に電話がかかってくるのは悪い知らせだろう、そう確信した日が何日もあった。

 

しかし2020年の6月初旬、バンクーバーに戻る旨の連絡が入った。『真夜中のミサ』は、このCOVIDがもたらした新しい現実におけるNetflixの最初の番組の一つになるのだ。夢のような話だ。私たちは、この新しい世界での製作のあり方を定義する手助けをすることになり、新しいプロトコルを確立し、改良するための槍の穂先となるのだ。2020年6月下旬、私は再び飛行機に乗り、すっかり変わった業界へと降り立った。

 

セットはまだ残っていたが、何ヶ月も風雨に晒されボロボロになっていた。何ヶ月にもわたって放置され、風雨に晒され草木が生い茂り、そのおかげでセットはさらに良くなっていたのだ。番組に出演できる人数に制限があったため、人口の少ない理由を説明するために数年前に原油流出事故でクロケットが壊滅したというコンセプトをストーリーに加えた。これは完全にCOVIDのためのものであり、当初はエキストラを現場に呼ぶことはできなかった上、それがいつ変更されるかもわからなかった。しかしそれによって物語に「何か」が加わり、クロケットの世界は実に深みを増していった。

 

撮影を開始したのは2020年8月17日。「バンクーバーのプロダクションを復活させた」と大々的に報じられた他のプロダクションが動き出す数週間前のことだった。私たちはテストケースであり、Netflixにとっては炭鉱のカナリアだったのだ。私たちはCOVIDをリアルタイムで操作する方法を学んだ。息を潜め、毎日シャットダウンに怯えつつ、自重しながら働いた。

 

そしてそれは、人生で最高の製作体験となった。

 

このキャスト、このクルー...これに匹敵するものはないかもしれない。これが私にとって何を意味するのか。たとえ辛い日だったとしても、毎日がとてもポジティブな経験だった。2020年12月15日に撮影は終了したが、一度もシャットダウンはなかった。一日たりともだ。そして、撮影現場での毎日が贈り物だった。

 

車の後ろでサイレンの光を反射しているイクトゥスのことを最初に書いたときから、たくさんのことが変わった。私自身も変わり、世界も変わり、業界も変わった。この作品はアルコール依存症から抜け出せず、組織された宗教への複雑な怒りを抱え、許しとヒューマニズムへの関心が高まっていた一人の若者が考案したものだ。その映画監督はその物語が始まってから10年の間で大きく変わり、しらふの夫、そして父親としてこの物語を撮り始めた。テレビの見方が変わり、業界が変わり、世界が変わった。

 

私は、聖書に書かれているような奇跡を信じてはいない。しかし、別の意味での奇跡は信じている。私たちの人生において奇跡は、私たちが起こすものもあれば、単に私たちに降りかかるものもある。子育ての奇跡、創造の奇跡、成長の奇跡、そして赦しの奇跡。この作品は奇跡だと私は信じている。この作品は小さくて壊れやすい泡のようなもので、何年も何年もしがみついて、私たちの世界に劇的で大陸規模の変化が起こる瞬間、その合間でついに、静かに、繊細に、生まれ落ちたのだ。

 

私はこの物語が存在していることをとても嬉しく思う。何もないところからこれを作り上げた素晴らしいアーティストたちに感謝を。このプロジェクトを推進してくれたローラ・デラヘイとブレア・フェッターに感謝を。何年も前に正直まだ準備ができていなかったときにこのプロジェクトを見送ってくれたあの時のブレアにも感謝を。妻のケイト・シーゲルに感謝を。彼女は私の人生を救ってくれた、この世に私の天国を作ってくれた。キャスト全員に感謝を。今まで一緒に仕事をした中で最高のアンサンブルであり、私にとって今や家族のような存在だ。撮影監督のマイケル・フィモナリに感謝を。彼のことを兄のように思っているし、彼はいつも以上の力を発揮し忘れられない作品を作ってくれた。実の兄であるジェームズ・フラナガンに感謝を。彼は私と同じように自身と子供時代の経験をこの脚本に注ぎ込んでくれた。そしてパートナーのトレバー・メイシーに感謝を。彼自身もアーティストでありクリエイターだが、何年にもわたってこの作品を作ることに固執し、おそらく彼のキャリアの中で最も困難な製作経験をしながら、私たち全員と共に土に塗れながらこの作品を作り上げてくれた。

 

私は、たくさんのキャストやクルーに感謝している。何年も、そして何度も一緒に仕事をしてきた人もいる。皆がこの物語のためにキャリア最高の仕事をし、互いを高め合い、日々挑戦し、私たち全員のためにより高いハードルを設定してくれた。

 

異なるタイミングで怒りと恐れ、依存、実存的危機を抱えながらこの物語に触れ、それを形作ってきた過去の様々な自分を思い返す。侍者、無神論者、科学者、信者、穏健派、学生、親、子供、アルコール依存者…これら全てのバージョンの私がこの番組で互いに会話をしている。そして彼ら全員に感謝している。クロケット島の人々について書くたびに、言いたいことがたくさんあった。知っていると思っていたことも、知らなかったこともたくさん。

 

物語そのものに命が宿るというのは、おかしなことだし美しいことだ。私の経験ではあまりないことだが、なんとここではそれが起きたのだ。実際、私の最も不完全なアバターであるライリー・フリンがこの物語の主役でさえないことに気付くのに何年もかかった。

 

宗教とは、私たちの心の中でうずく2つの大きな疑問、「どうやって生きたらいいのか」「死んだらどうなるのか」に答えようとするひとつの手段だと思う。2つ目の疑問の答えはわからないが(私の考え、願い、そして推測がこの作品で述べられてはいるが)、『真夜中のミサ』は長年にわたり、少なくとも1つ目の疑問の答えを出す手助けをしてくれた。あなた方が『真夜中のミサ』を楽しんでくれることを願っている。そしてあなた方全員の旅の先に、愛と幸運と赦しがあることを祈っている。

 

そしてあなたがこの2つの大きな疑問について考える機会があれば、そしてもしそれがわかったら、ぜひ私に教えてほしい。私はその答えを知りたいと思っているが、実際にはきっと一生知ることはないだろうとも思っている。私の知る限り2つ目の疑問は、1つ目の疑問にどのように影響するかという点でのみ重要なのだ。

 

Midnight Mass (TV Mini Series 2021) - IMDb

 

『イン・ザ・ハイツ』とは“声”である

In the Heights (2021) - IMDb

 

2020年にはBlack Lives Matterが、2021年にはアジア系差別に反対する運動が大きく広がった。映画というカルチャーにおいても、力ある黒人監督、アジア系監督の存在を例年以上に感じる年だった。しかしアフロアメリカンやアジアンアメリカンが取り上げられることはあっても、ラティーノアメリカンが取り上げられることはほとんどなかったのではないだろうか。

 

リン=マニュエル・ミランダはラティーノだ。彼がつくり上げた『イン・ザ・ハイツ』は2008年3月からブロードウェイで封切りされるや否や話題を呼び、その年のTony Awardsにてベストミュージカル賞を含む4つの賞を受賞した大人気ミュージカルである。そしてジョン・M・チュウ監督のもとこれを映画化したものが今作であり、米国では2021年6月11日、日本では同年7月30日に公開されている。

 

ブロードウェイのステージ上では表現できない垂直方向からのショットの多用、町全体を使った演出のスペクタクル、ガラスの反射を利用した巧みな編集、ミュージカルを映画化するにあたってここまで見事な映画的表現に溢れている素晴らしさを語るだけで日が暮れてしまいそうだが、今回はあえてそのような「形式」についてではなくこの映画の「主題」について書いていきたいと思う。

 

やはりこの映画を語るにおいてまずはラティーノ(ラテン系アメリカ人、ヒスパニック)について言及しなけばならないだろう。メキシコ、キューバプエルトリコなどのラテンアメリカ出自の移民およびその子孫は、長い間アメリカという国で確かに「アメリカ人」として生きてきた。それにもかからわらずその存在はないがしろにされ続けてきたのである。私は現在テキサス州のヒューストンで暮らしているが、メキシコのすぐ北、ニューメキシコ州のすぐ東のこの土地には本当に多くのラティーノが住んでいる。そして目にする多くのラティーノが道路工事の作業員だったりオフィスの清掃員だったりする。そういった賃金の低い職に追いやれている人が未だに多く存在し、感覚的にその数は黒人よりも多い。

 

そして冒頭でも述べたように、同様のことが映画の世界でも起きているのだ。ラティーノの俳優はたくさんいるが、ラティーノが主演を務める映画をあなたはいくつ思いつくだろうか。そんな中この『イン・ザ・ハイツ』はキャストをラティーノで固めながらラテン系の音楽やダンスを劇中に取り入れ、ラティーノのカルチャーを全面的にレプリゼーションした、ラティーノの『ブラックパンサー』とも言える素晴らしい作品だ。少なくともこんなに多くのスペイン語のセリフが字幕なしで流れているアメリカ映画を私は観たことがない。「これくらい字幕つけないでもわかりますよね?」「わからないならそれだけ我々から目を背けていたということですよね?」と言われているかのようだ。アメリカという土地にラティーノが存在していることが当たり前であるのと同様に、「アメリカ映画」というフォーマットの中にラティーノが当たり前に存在しているこの事実に感動を覚えずにはいられない。映画館で私の周りに座ってこの映画を観ていたラティーノたちの表情をきっと忘れることはないだろう。

 

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(注:以下、作品の後半の内容についてのスポイラーあり)

 

しかし、この映画の目的はそこではない。ラティーノに感動してもらうために作られたわけではないし、さらに言えばマイノリティへ理解のある観客に「いい作品だったなー」と感動してもらうことでもない。この映画の一番の盛り上がりは“96,000”が流れるシーンかもしれないが、ハイライトは確実に“Carnaval del Barrio”であり、この曲の歌詞を見ればこの映画が何を伝えようとしているのか明らかだろう。ジェントリフィケーションで上がり続ける家賃、閉じることを余儀なくされる店たち、挙句の果てには停電。そんな状況で何もできずにいる子供のソニーと女性のヴァネッサは“We are powerless”だと歌う。これは電気(power)が無い(less) ことにもかかっているのだが、ここでは文字通り「無力(powerless)」と捉えるのが正解だろう。自分のせいではなく社会的なシステムによって権利を奪われている二人が「私たちは無力だ」と歌い、それに対してウスナビが答える。

 

“Maybe we're powerless(確かに俺たちは無力かもしれない)”

“However!(それでも!)”

“Can we raise our voice tonight? Can we make a little noise tonight?

(今夜声を上げないか?ちょっとでいいから騒いでみないか?)”

“In fact, can we sing so loud and raucous They can hear us across the bridge in East Secaucus?

(あの橋の向こうにいるヤツらに聞こえるくらい、騒がしいくらいに歌ってみないか?)”

 

このたった数分のやり取りに、この映画の全てが詰まっている。向こうにいるヤツらに聞かせてやるための声。『イン・ザ・ハイツ』は元々ブロードウェイのミュージカルだ。そう、この作品はブロードウェイの客席の大半を占める白人たち、普段ラティーノのことなんてまったく考えていないヤツらに、「存在」を気づかせてやるための「声」なのだ。『アメリカン・ユートピア』でデヴィッド・バーンが白人ばかりのファンに向けてジャネール・モネイの“Hell You Talmbout”を歌ったように。そして「声」とは無力な我々が持ち得る唯一の武器であり、アブエラが言っていた“Little details that tell the world we are not invisible”なのである。

 

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それだけではない。この映画は終始ウスナビが子供たちに物語を伝えることで話が進んでいくという形式がとられている。要するに子供たちに「声」を伝えているのだ。ポストトゥルースのこの時代において後の世代に声を、歴史を、嘘偽り無く伝えることの重要性。

“Say it, so it doesn't disappear.

(声に出そう。そうすれば消えない。)”

ソニーというキャラクターの描き方やDACAへの言及など、この映画において子供の存在は重要なファクターになっている。ウスナビでもヴァネッサでもなく、二人の子供であるアイリスの顔をアップで映して映画が幕を閉じるのも必然だ。あのラストカットを見たとき、思わずガッツポーズをしてしまった。DACAは若年時にアメリカに入国した不法移民(undocumented immigrant)に対して強制国外退去処分を延期して就労許可を与えるものであり忌まわしきドナルド・トランプがこれを2017年に廃止したのだが、オリジナルは2008年のミュージカルだったのに対して映画はしっかりトランプ以後の作品になっている点も良くできている。

 

そして何よりウスナビがドミニカ共和国へ帰ることはせず、ワシントン・ハイツで生きることを決めた選択に胸を熱くせざるを得ない。彼にとっての本当の「故郷」はここ、アメリカなのだ。両親が生まれ育った国と自分が今住んでいる国、その二つの国の文化と価値観の真ん中にいてどちらにも属せないでいる移民二世のアイデンティティを後押ししてくれるような、アジアンだろうがアフリカンだろうがラティーノだろうが、このアメリカで育ったあなたはこの国を「故郷」と呼んでいいのだと言ってくれているような、そんな“I'm home!”と声高らかに歌うウスナビの声に胸を打たれる。

 

もちろんこの映画は決して完璧な映画ではない。ラティーノをレプリゼンテーションしているにもかかわらずダークスキンのラティーノ(アフロラティーノ)がほとんどいない、いてもバックダンサーなどに追いやられてしまっている。ニーナ役のレスリー・グレースはアフロラティーノではあるものの彼女の肌がダークだとは言えないだろう。実際にワシントン・ハイツにはダークスキンのラティーノが数多く住んでいるわけなので、こんなことではレプリゼンテーションされた気にはならないとダークスキンのラティーノたちが怒りの声を上げるのは当然だ。

 

しかし今まで虐げられてきた多くのラティーノがこの映画の存在に救われているのも事実。そしてこの映画に満足していないラティーノがいるのもまた事実。この映画がアメリカで埋もれていたラティーノの「声」を浮かび上がらせてくれたことへの賞賛も、この映画に寄せられた批判と怒りの「声」も、共存できる、共存すべきものなのではないかなと思っている。ウスナビがそうしたようにその声たちを全て次に伝えていくこと、それによっていつかダークスキンのラティーノが主演を務めるハリウッドの超大作が生まれることを願わずにはいられない。

『フィアー・ストリート』が描く“呪い”という“システム”

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システミック・レイシズム(systemic racism=制度的人種差別)という言葉はBLM以降、この一年でかなりアメリカ中に浸透した表現のように思える。個人の個人に対するヘイトではなく、大きな組織や制度の中に組み込まれてしまっている構造化された差別。労働や教育機会の欠如などが代表的だろう。システミック・レイシズムを題材とした映画も近年数多く製作されており、そういった差別の「構造」をどのようにして映画的に表現するか、伝えていくかというのが一つのポイントになっている。

 

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例えば2021年に開催された第93回アカデミー賞において短編映画賞を受賞した『隔たる世界の2人』は、主人公の黒人男性が「吸っている煙草の匂いがおかしい」として白人警官に所持品検査を強行され、それに抵抗したために警官に押さえ込まれる。その結果ジョージ・フロイドのように窒息死に追いやられるのだが、次の瞬間にはその日の朝ベッドで目が覚める時間まで戻っている。その後生き延びるために彼はあらゆる手段を試すのだがどんな選択を取っても死を迎える結末は変わらず、ループを繰り返しそこから抜け出せなくなるという物語だ。要するに何百年も続き決して終わることのない差別の構造を「タイムループ」という設定で表現した素晴らしい作品であり、こういったアレゴリー的な手法が2010年代後半以降の映画やドラマでは特に顕著である。

 

今回Netflixで配信されたホラー映画『フィアー・ストリート』3部作も同様だ。この作品の舞台は隣り合う2つの町シャディサイドとサニーヴェイル。サニーヴェイルでは犯罪がほとんどなく誰もが経済的に豊かで最高の人生を送っている一方、シャディサイドには貧困と犯罪が蔓延、何年も前から同じような殺人事件が頻発しており、それは魔女の呪いの仕業ではないかと囁かれている。主人公の黒人女性ディーナはシャディサイドの住民であり、最近シャディサイドからサニーヴェイルへ引っ越した元パートナーの白人女性サムとは疎遠になってしまっている。物語が進むにつれてそんな二人とその仲間たちが呪いの標的となり命を狙われることになるのだが、まさにその「呪い」こそが「システミック・レイシズム」のメタファーなのである。

 

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レッドライニング(red lining=赤線引き)という概念がある。主にアメリカ合衆国において認識されている金融論の概念であり、金融機関が低所得層の黒人が居住する地域を融資リスクが高いとして赤線で囲み融資対象から除外するなどして差別する、典型的なシステミック・レイシズムだ。1930年代から拡大したレッドライニングは現在法的に禁止されているものの、その影響は今も根強く残っている。まさに呪いだ。『フィアー・ストリート』において呪いがシャディサイドのみを襲い、そこに住んでいるというだけで差別され不都合を背負わされることになるのはまさにレッドライニング的だ。また、サムがシャディサイドからサニーヴェイルへ引っ越したのも、彼女が白人だから呪いの町から抜け出すことができたと解釈できる。Part 2を観た人は気付いたと思うが、サニーヴェイルの住民は白人ばかりだ。また、Part 1で呪いに襲われたディーナたちは白人の保安官であるグッドに助けを求めるのだが、彼に話を信じてはもらえない。警察同様、公的な組織が黒人である彼女たちを助けてはくれないのだ。

 

以下、Part 3 の内容にも踏み込みながら物語の結末にも触れていくので『フィアー・ストリート』三部作をまだ全て観ていない方は注意して欲しい。Part 3の前半、時は1666年まで遡り呪いの起源が明らかになる。サラ・フィアーは魔女ではなかった。レズビアンであるという理由だけでヘイトの対象となり、魔女の濡れ衣を着せられ晒し首にされた無実の女性だったのである。セイラム魔女裁判という1692年にアメリカで実際に起きた一連の事件がある。集団心理の暴走により200名近い無実の村人が魔女として告発され19名が刑死、1名が拷問中に圧死、5名が獄死した。そして魔女という告発を受けた最初の3人の女性のうち1人がサラ・グッドという名前であり、サラ・フィアーの名前もここから拝借していると思われる。サラ・グッドも絞首刑により命を落としている。

 

このセイラム魔女裁判は同性愛者を標的にしたものではないが、無知と偏見により抑圧を加速させる大衆という点は同様であり、ここに世界各国に存在している同性愛者狩りの歴史を組み合わせたのがこの作品である。まさに「ホモフォビア」という「呪い」である。サムがシャディサイドからサニーヴェイルへ引っ越して黒人差別の呪いの町から抜け出すことができたにもかかわらず呪いの標的になっているのは、まだ別の呪い、ホモフォビアの呪いが残っていたからと解釈できる。これは不平等を押し付けられてきたレズビアンの戦いでもあるのだ。

 

そして呪いの元凶はソロモン・グッドという白人男性であり、その呪いの力はグッド家に何代にもわたって受け継がれ、Part 1 の舞台である1994年においては子孫のグッド保安官がその力を所持していることが判明する。シャディサイドの人々を生贄にすることでサニーヴェイルの利益を担保するというのが呪いの効果だったわけだが、個人的な権力や社会的な利益のために一部の人々を犠牲にする、白人至上主義とやっていることは同じである。Part 3の後半ではディーナと弟のジョシュに加えて黒人の仲間がもう一人加わってグッド保安官を迎え撃つのだが、これは保安官という黒人を守ってはくれない「国の組織」に立ち向かう黒人たちという見方もできる。

 

歴代のホラー映画をオマージュして色々なジャンルを行き来しつつシンプルに楽しめる作品でありながら複雑に組み立てられた脚本と様々な文脈を織り交ぜた設定は秀逸であり、三部作に綺麗にまとめ上げたリー・ジャニアクの手腕は見事であると思う。最終的には呪いに打ち勝ったディーナとサムが何にも邪魔されず愛し合う未来を手にするのだが、呪いが完全に消え去ったのは映画の中だけの話。我々が生きるこの現実には、いまだに「白人至上主義」と「ホモフォビア」の呪いが蔓延っている。こういった素晴らしい映画の存在はその呪いを少しずつ、確実に、消し去っていくための一助となるはずだと信じている。